昭和41年05月21日 総合委員会
今日は総合委員会の第四回目のそれが、御造営の資金計画の事。それから私の教師資格問題の事等について、今日の会議が行われる事になったんです。何と申しましても信心の事で御座いますから、自分が信心にならなければいけません。例えば今日皆さん大勢集まられてその集まられたのが、例えばご通知ご案内頂いたから来たという人と、その事に本当にお役に立ちたいと思うて集まって来た人と、私はあろうとこう思う。
例えば、お参りをすると云う事が、心持ちがあってお参りする人と、心持ちはないけれども、何かお参りが惰性の様なものになってからの、お参りの人とがある様なもんですね。行かんならんから行くのと、やむにやまれんから行くのと、いわゆるお参りをする神様、信心さして頂くのはそこの所がです、一番根本にならなければならんのですね。私、こんなその大体がお粗末に出来とるもんですから。
今日は大体何の為の集まりですかと今、御祈念の座に着いてから、お尋ねしとる様な事でしたけど、四回目の総合委員会なんですね。内容はどう云う事ですか。内容はあのこうなんですと云う事を私、あの聞きましてね、その事をすぐ神様にお届けさせて頂いたんです。そしたらねあの頂きます事があの、代々ここはひとつしか何時も致しませんけれども普通は、他所の教会ではあの紅白のお鏡さんは、両方にするんですよね。
一対、一台の方には紅白のお鏡の餅が載って片方には、から三宝がお供えしてある様な所を頂くんですね。ですから私は、その矢張り今日こうして、通知ば頂いたけん、まあ行かじゃこてという人も、やっぱ、ありゃせんかとこう思うのです。いわゆる心持ちがないのです。お鏡さんというのは、心持ちがないと云う事です。心持ちがあっても、心持ちのない人という事なんです。
ですからここで会の始まる前に当たってです、ほんに私こそ心持ちがなかったとね。さあ是から、例えば、どういう話合いがあるかもしれんけれども、その事を詫びさせて頂いて、改めてその心持ちを、自分の心の中に作ってね、そしてこの会合が持たれなければ言わば、意義が半分の事になってしまうのですね。どうぞひとつ、おかげを頂いてそういう心持ちが例えば、あのお願をせんならんけんお参りをするという時にゃ、心持ちがあるとです。この事ばお願せないかんから、お参りせなならんね。
だからこの事をお願しなければならんから、お参りしなければならん。この事をお詫びしなければならんから。この事をお礼申し上げねばならんから、お礼参拝させて貰わなければという。その心持ち、その心持ちが神様に通うのですね。ですから、勿論、神様に心が通うただけじゃいかん。それが、なら、お聞き済みになり、それが次のおかげに継ながって行く様なもんでなからにゃならん。お願した事が神様が聞き届けて下さる。それがおかげになって現れて来るのでなからにゃいかん。
お詫びがお礼が聞き届けられて、そこからおかげに、次のおかげの道が開けて来るものでなからにゃいけないと云う事。為には先ず。心持ちが先ず出来とらなければ出来んでしょうがね。そして私は何なりとも、願わなければならんと云う事ですね。例えば今日なんかは、話合いがだんだん進んで行くに従って、お互い真剣に願わなければならない事になる事だと思うのです。ですから、それを矢張り願っていかなければならんね。実意も持って何なりともとおっしゃる。
それは牛馬の事に至までも願えとおっしゃる。ですからその願そのものがです、実意の内容でなからなけりゃならんと云う事ですね。私はそれを思うです。今朝御神前に出さして頂いたら、あの皆さん御承知でしょうか。私共が少年時代にはねあのビ-ルというのはね、全部あのきちっとした大きな箱積めでしたよ。あのお説教箱より、ちょっとこまい位な四ダ-ス入りの箱積めでした その替わり、一本一本にきちっとその麦わらのつとがはまっていました。
皆さん知っとられるでしょうか、私は、酒屋だったんでよく知っとるんです。それがまあ、私が青年の頃からあの、二ダ-ス箱になりました。いわゆるあのすき箱になりました。箱の中が見えるのです、ビ-ルの中が、そいでつとなんか、いっちょん被さってないんです。只、がちゃがちゃ言うところに、こうわらが突っ込んである程度なんですけれども、あれで非常に破損が少なくなったと言われております。もうほとんど絶無だそうです。中が見えるからです。
あの四ダ-スの箱は如何にも成程頑丈に荷造りがしてあるんです。ところが中が見えないもんですから、仲居さん達が上げ下げする時にね、投げたり引いたりする時に必ず、一本二本割れとったもんです。あれでもあれだけの頑丈な荷造りをしとったけれども、だから結果に於いては却って、いや中が言わば私共の願というものがですよね、例えば自分が百斤しか持てんのに、二百斤という願はこりゃ私、こりゃどうかと思います。だから矢張り、是は小振りにしなければいけません。
本当におかげを頂けれるという確信の持てるもの、願ったらこの位の事はおかげ下さりそうなものと言った様なものですね、ですから四ダ-スの箱を二ダ-ス箱にして、そして私はですね中身が見えなければ駄目だとこう思う。皆さんが御神前で御祈念なさる時に、しっかりやっぱ拝みよんなさるから、そうな拝みよんなさるに違いないです。あれがとてもお礼お詫びはかりとは思われん。あれも是もと思い出しちゃもう思い出しちゃ手たたいて拝みよんなさるじゃろう。お願しょんなさるじゃろうと思うです。
あれは丁度です、丁度あの目に見えないですね、荷造りをしてある様なもんですね。それはね、お取次を頂かなければいけんです。どんな事でも、しかもそれがどの様な事でもと仰るのですから、牛馬の事に至るまでもと、人間だけの事だけじゃない。五穀豊穣ね、例えば農作物の事から、人間関係の事からね、牛馬の事に至まで実意を持って願えと、こう仰るので御座いますから。
皆さんが実意を持ってですね、もう実は今日はここが痒う御座いますから、今日はここが痛う御座いますから、今日は実はこれだけの金が足りませんから、今日はあぁありたい、こうありたいという願をお取次を願わなければいけないと云う事なんですね。それがここにはっきりと見えなければいかんのです。それが私は、すき箱の様なものじゃないだろうかと思うのですね。見えるから、神様も大事にして下さるのですよね。
それにあなた、その自分なてろチンチンであってからですたい、そのしてそれから一千万円下さいなんちゅうこげなこたあ、可笑しいですよ。どうでんね、自分な商売もなぁんもしよらんどいてから、本当は百万の宝くじが当たるかの様な気持ちです。どうぞ百万円下さいなんて、是はおかしいですね。私のです本当にお金頂ける、まず場を作って、その場の上に於いてです、おかげの頂けれる事を願わにゃいかんのですね。
現在商売をさせて頂いておる人がです、現在一万円しか売上のないならば、どうぞ是が一万五千円の言わば、ああ、この店この場所なら、是だけの周囲の沢山の人がおられると云う所からね。そこんところに願を焦点を置いてね、そしてせめて、この位の所はおかげは頂けれそうなと云う所を、願わなければいけん。雲を掴む様な願じゃいかん。所謂今まで、四ダ-ス箱じゃったのが、二ダ-ス箱に替えなければ持てない。
ああそうかというて、神様が下さってもそれを持つ力がなかったらどうしますか。千斤下さいというて五百斤しか持てなかったら折角頂いた五百斤置いて行かなければならないじゃないですか。そこでです、私共が実はこんな所があるんですよね。あの十年も二十年も信心しよるけんこげな細かこつまで、こげな私的な事はとかね、こげな恥ずかしい事はお願がでけんと言った様な事で、もう神様が御承知と言った様な考え方は金光教的じゃないです。私は実意を欠いておる事だと。
それは横着だと思う、それは本当に私はお取次を頂いて、願わにゃいけんとね。今日こうありたいと言う事を本当に願わなければいけないね。その変りそのおかげが、本当におかげがおかげとして頂ける為にですね、例えば今日の御理解なら今日の御理解、日頃心に掛けて来ておる所の生き方なら生き方、教えなら教えというものをですね、本気でその事を行じますと云う事にならなければと思うです。
私は実意も持って願うと云う事は、そう云う事だと思うです。只願っぱなしじゃない。痒う御座います、どうぞその変りに私はこの事に願う変りにこういう信心もさせて頂きます。こういう改まりもさせて貰います。そこんところが私は実意がなさらなければいけないと思うんです。その事が実意を持って何なりとも願えと云う事だと思うんですね。そう云う様におかげを、私共が頂いて参りますと、いわゆる天理教でいう願い込みというそうですね。先日聞きましたけれど願こみ願って願って願ぬくと云う事。
お取次を頂いて、頂きぬくと云う事。いっぺんお取次を頂いとるけんでよかろう、と云う事ではいかん。それを繰り返し繰り返しお取次を頂いて、ひとつの願に対してね、だからお願をさして頂いてたら、その願が実意であるかどうかと言う事を、確かめて、願っておる。そして実意をもって願った事と、神様の願とを私共が平行にです、神様に願を聞かせて頂く所のありかたに、こちらがならせて頂かなけりゃならんのです。
お参りするひとつの事でもです、心持ちなしに参ったんでは駄目です。惰性で参っても駄目なんです。誘われて参ったんでも駄目なんですね。お参りさして頂きたいという心持ちがあってお参りがあって、始めてその心持ちが神様に通うのです。その通うただけではいけんのです。通うたなら、今度はおかげがこちらの方に通うて来なくてはいけんのです。為にそういう心持ちを持って今度は願うのです。
しかも実意ももって願うのです。それがおかげになる所まで願い込みをやるのです。そして私は、願って行く内に、成程是ではおかげは頂けん筈だと言った様な物を、気付いたなら、そこんところをすぐ取り組んでおかげを頂いて行かなければならないと思うんです。どうぞ是からのいろんな話合いの上に於いて、先ずその前に皆さんが全部、折角おかげを頂くのですから。
その心持ちを、先ず作らなければいけません、そして次の話になって行かなければなりません。どういう話になって参りましても、それが我々の分担するする所をしっかり自分自身に頂いて持ち前、立場に於いてです、その事を私は、願わなければいけん。心に思うとるだけではいかん。すき箱にならなきゃ詰らんね。
願うてもおかげにならんなら、自分に分が過ぎての願であるなら、それを少しこまめなきゃいけんね。そしてすき箱にしなきゃならん。隙だらけに、お取次を頂ける中身の見えるものにならなけりゃいけない。そしてしかも、それを願込みをするという、繰り返し繰り返し願うと云う事ね。そこに神様もおかげを下さる事の出来る働き、私共もおかげの頂ける場というものが生まれてくると思うです。
どうぞ。